惜しむ声

越後正一さんが亡くなったとき、生前親しかった経営者や財界人たちから惜しむ声が続々と聞かれた。人間味あふれる思い出を語る人も多かった。

塚本一幸・ワコール会長「ゴルフに意気込み」

「私にとっては滋賀県立八幡商業学校の大先輩。ゴルフがお好きで、高齢になられてからも、必ず優勝してやろうという意気込みだった。健康に気をつけられ、玄米に小豆を入れたにぎりめしなど、奥様お手製の弁当を持ち歩かれ、私たち後輩に『元気か』と注意されるほどだったのに……」

瀬島龍三・伊藤忠商事特別顧問「伊藤忠の中興の祖」

「1960年(昭和35年)からスタッフとして一心同体のような気持ちで補佐してきた。一繊維商社だった伊藤忠が世界的総合商社に発展したが、その骨格と基礎は越後さんの時代に確立された。中興の祖といえる。意志の強い、また決断の明確な人でした。人情にも厚い、人間味の豊かな人柄でした」

谷口豊三郎・東洋紡名誉顧問「実行力と几帳面さ」

「おつきあいの最初は、1962年(昭和37年)にフランスの商社にご夫妻と一緒に招待された時。思ったことは最後までやりとげる 実行力と、几帳面(きちょうめん)さを兼ね備えた方で、これも伊藤忠兵衛さんに見いだされた理由のひとつでしょう。越後さんも忠兵衛さんを師と仰ぎ、尊敬されてました。丑(うし)年生まれの『丑の会』を20年来続けているが、主要メンバーをなくし残念です」

大阪財界発展に尽力--戸崎誠喜・伊藤忠相談役

会社の総合化を成し遂げると同時に、大商副会頭として大阪財界の発展に尽くされました。私的なことを言えば、私が社長在任時代、2回の石油ショックによる商社冬の時代を迎え、安宅産業合併などがあったが、陰ながら激励を受け、勇気づけられました。まったく大事な方を失い、非常に残念に思います。

仏心に厚い人だった--芦原義重・関西電力名誉会長

越後さんとはおない年で、社長になったのも同じころでした。関西財界のトップの集まりである「朝の会」や現職総理を囲む「吉兆会」、丑年生まれの「丑の会」など、公私にわたり親しくさせていただいた。先見性があり、情報力にすぐれた卓越した経営者で、伊藤忠発展の基礎を築くなど経済界に大きな足跡を残した。また、仏心に厚い一方で、しゃ脱で、人間的な魅力にあふれた人でした。

同い年で、社長になったのも同じころ。関西財界のいろいろな集まりで一緒で、公私にわたり親しくさせていただいた。西本願寺の門徒総代をされるなど仏心に厚く、一方で、ゴルフも上手な洒脱(しゃだつ)な方だった。先月(1991年3月)の集まりの直前に欠席の通知をもらい、心配していた。

卓越した相場感覚--竜野富雄・丸紅社長

江州商人の伝統気質と卓越した相場感覚で伊藤忠商事の業容多角化、近代化にらつ腕をふるわれた。今日の伊藤忠商事の基礎固めをされた名経営者であった。また、貿易業界の発展にも常に指導的立場で関与された。

商売の仕方を習得--日商岩井・植田三男相談役

越後さんは、いわゆる近江商人であり、大阪商人でもあった方だけに、商売の仕方から教えていただき、非常に勉強になった。商社業界の中でも最長老で、ご自身は非常に健康を大事にし、飲み物や食べ物にも十分留意されておられた。つい昨年(1990年)、ゴルフ場でお見かけしたばかり、天寿をまっとうされたと思います。

宇野収・関西経済連合会会長

綿糸、綿布相場の神様といわれた方で、私個人としても、越後さんが戦後、伊藤忠の金沢支店長をされていたころから、綿糸、綿布取引でご指導いただき、公私ともに大変お世話になった。経済界全般にも影響力を持たれ、私が関経連の仕事をするようになってからも、顧問としていろいろアドバイスをいただいた。大阪は繊維中心の経済から変わりつつあるが、今後、天上から大阪の発展を見守っていただきたい。

井上薫・第一勧業銀行名誉会長

1991年1月半ばに銀行に年始あいさつに見えた時は「これからハワイへゴルフに行く」と元気そうだったのだが…。大変、勘がよく、かつ勉強家の商売人だった。第一銀行と勧銀が合併する、と新聞にスクープされた日(1971年3月11日)の朝、一番に銀行(第一)に駆けつけたのが越後さんだった。合併でメーンバンクが住友銀行から一勧に変わる、とピンときたんでしょうな。さすが、と思いましたよ。

佐治敬三・大阪商工会議所会頭

相場師としての直感力と優れた経営力で伊藤忠商事の戦後の歴史を築かれた方だ。大商では、1990年11月に議員を退かれるまで、特に1971年から1981年まで副会頭として国際関係を中心にご活躍いただいた。1989年のワールド・ファッション・フェアの大成功も、トータルファッション協会長としての越後さんの手腕に負うところが大きかった。関西経済界のリーダーの1人を失い、残念だ。

出身地である滋賀・彦根との関係、ゆかり

越後氏は、葉枝見村大字下稲葉(現彦根市下稲葉町)で、1901年(明治34年)4月26日に生まれた。昭和天皇より3日早かったのが自慢の一つだった。兄姉にも恵まれ、7人の4番目だった。

滋賀県人会世界大会

1991年8月4、5日に滋賀県大津市で開かれた滋賀県人会世界大会実行委員会会長として大会成功へ向け、世話役を務めるなど世界に広がる近江商人の中心的役割を担った。

滋賀県人会世界大会実行委を置く滋賀県観光物産課では職員らが「大会開催のため、企業に協力願いに行ってもらったり大変お世話になった。職員と冗談を言い合ったり、気さくで優しい人だった。しかし、仕事には厳しかった」と生前の人柄を思い起こしていた。

県の同志を激励

1990年2月23日には、大阪市で開かれた「あきんどフォーラム・プレイベント」での祝辞で「天びん棒を担ぐ時代は過ぎた。しかし、尊い勤倹力行は忘れてはならない」「時代は変わったが働かねば成功しない。私はもうダメと思ったとき『近江商人たるものが皆より早く投げ出すという手があるか』という気持ちで頑張ってきた」と自らの経験を基に、滋賀県人同志を激励した。

獅山向洋・彦根市長

獅山向洋(ししやま・こうよう)彦根市長は「経済界でのご活躍とともに、大阪滋賀県人会、全国滋賀県人会連合会長として、湖国滋賀県民のためや彦根市のためにお骨折りいただきましたことに、深く敬意を表し、感謝しているところです。彦根市民とともにごめい福をお祈り申し上げます」とコメントした。

稲葉稔・滋賀知事「湖国誇りの経済人」

思いがけず湖国が生んだ偉大な経済人越後正一氏ご逝去の報に接し、誠に残念です。1991年は世界中から滋賀県人が湖国に集う「滋賀県人会世界大会」を10年ぶりに「ふるさと滋賀」で開催することになり、多大なご尽力をいただいていたところです。

近江商人の経営哲学といわれる「三方良し」の考えどおり、厳格な中にもユーモアと社会への貢献を忘れなかった氏のご生涯は、われわれ県民にとっても大いなる誇りであり、氏のご功績をしのびつつ、ここに謹んでごめい福をお祈り申し上げます。


大阪商工会議所副会頭としての財界活動

越後氏は1971年10月から1981年12月まで、大阪商工会議所副会頭として故・佐伯勇元会頭を補佐した。1974年の国立文楽劇場の大阪誘致に尽力した。

1976年にはイースタンストッフ協会(現・トータルファッション協会)を設立した。1989年に大阪などで開催された「ワールドファッションフェア’1989」の実現にも繊維業界のまとめ役として活躍した。

勲章

越後氏は海外でも広く活躍した。米国テキサス州ダラス市とテキサス州ヒューストン市の名誉市民になった。オーストリア共和国大銀功労章などを受章した。

国内では勲一等瑞宝章を1982年受章した。